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集積回廊2:Pさん

 耳と目、二人三足であるく。二束三文の価値もなく。ああ、二人三脚というのだったっけ。どちらでもいい。耳と目に価値を置きすぎて、膜は破けた。とんだ佐村河内というわけだ。皮膚と鼻腔に耳垢が溜まる。たまにくすぐるとこそばゆい。だがそれだけで、相変わらず時間が過ぎることはない。時よ歩け。だが、それをするには耳と目だけが必要であるか、モニタとヘッドフォンだけは必要でないか、――

 

   一



 ねえ、実験音楽はもうその役割を終えたんだって。バッハが言った。だからといって、心の動きと音との幸福な結合に戻るわけにはいかないでしょう、とゴルトベルクがお言葉ですがと添えて言った。スペクトル学派につくという形で、制御された音高というモデルに戻ることも、と。いや、私だってもうその辺の世界像を構築するには年を食いすぎたわけだし、そんな期待のまなざしで見られても、困るわ、大バッハであるバッハはくねくねと体をストーンズのように動かした。
 実際、作曲から二十年くらい経過してから、ある邦人によって演奏されたジョン・ケージの「プリペアド・ピアノのためのソナタとインターリュード」は、題名にもあるとおり、プリペアド・ピアノという、弦の間に異物を挟みピアノならざる音を出す楽器を使っているのだが、それは当初の「膨大な量の打楽器を省スペースで」「一家一台のプチ・オーケストラ」という目的から離れて再度ピアノに立ち返ったかのようで、さらにソナタ(!)でさえあり得た。映像を見ると、ピアノの弦にフォークやら、筒状のゴムやら、紙やら、ありとあるものを挟んでいるのだが、それらが音の中心から外れるように、掠れるように出す、うねる筐《はこ》の全体を駆ける楽器作者の意図しない高音域の雑音は、ピアノのピアノ性をむしろ掻き立て、そして、偏頗である故に生き延びた、死にきれなかったソナタになり得たのだ。
 その彼が、次にバッハを演奏する。しかもグレン・グールドにケンカを売りながら。
 バッハが床に捨てた陶磁のコーヒーカップは焼成する際ぶ厚に作られたので、小ぶりに見える取手すら取れずに、「コーン」という音をさせて転がるだけだった。ちゃっかり、中身は一滴残らず飲まれていた。以来バッハとゴルトベルグは音信不通となり、ゴルトベルグの方は、例の計画のせいで宇宙空間を気儘に漂う身と相成った。

 

 

 いま聞き直してみると、その時思った以上に、演奏スタイルは六〇年代から出ていないものであった。一つのパルスで統一されたという『ゴールドベルク変奏曲』の再録音は、まるでエリオット・カーターのようなアメリカの作曲家が五〇年代に試みていたことの演奏版だ。楽譜の上でリズムは変わっても音楽は動かない。そして指はすべての音を切断し、すべての声部はブーレーズの「第二ソナタ」のように均質化し、……

(不詳)

 

   一一



 私が何であるかを知ったのは、くらい洞穴の中に祀られていた、半透明の旭化成「ジップロック コンテナー」を開け、そこにある祝詞《のりと》の書かれた紙片を取り出し、読んだときだった。読んだとは言っても、それは情報としてではなく、私が私であるという確信とひとつながりに、一瞬にしてなったので、そこに書いてあったことば/形ははおろか、その前後の状況すらはっきりと思い出すことは出来ない。
 いや、だんだんと、真綿が雲を掴むようにして、その時のことが思い出されてきた。苛烈な陽光が岩の黒い部分をニクロムのようにさらに暗く輝かせていた。げっそりと欠けている岩壁が、無意識のうちに私を引き寄せたようだった、いや、よく見ると入り口のところに、緑色のフィルムでマスクされた蛍光灯が、白く走る人の形を浮き彫りにしていて、それに引き寄せられたのかもしれない。とにかく、濡れていて凹凸もある歩きにくい岩の道を歩いていくと、すぐに最奥に突き当たった。
 書きつつ思い出しているのだが、祀られていたその旭化成「ジップロック コンテナー」は、実は二つあり、一つは逆さにされて、それぞれの蓋を合わせるようにして、重なっていた。そして、祝詞の書かれた紙片はその旭化成「ジップロック コンテナー」の、恐るべき密閉率(七日間、生のニンジンが乾かない!)を誇る内部に保存されていたわけではなく、あの特徴的な青い蓋と蓋に挟まれるようにして、外部にあったのだ。それをこっそり取り出す様は、まるで「曰」の字のようだった。この二つの矩型の間にあるのが、旭化成「ジップロック コンテナー」の蓋と、その祝詞であり、右側の、すこし開いた部分が、紙をほんの少し抜き去った部分だ。それを抜き去って、……いや、やっぱりその時のことは覚えていない。


象形 祝詞《のりと》など神霊に告げる書を収める器である口《さい》の蓋《ふた》をすこしあけて、なかの祝祷《しゅくとう》の書をみようとする形。曰とはもと神託・神意を告げる意である。〔説文〕五上に、人が口をあけてものをいうとき、口気のもれる形であるとするが、卜文・金文の字形は、器の蓋をすこし開く形に作る。……

(白川静『字統 [普及版]』53p.)


「集積回廊2」として計画していた小説の触りです。締切にとても間に合わなくなり、またこんな書き方を続けてもなあ、というのもあり、そして何より、佐村河内ネタがまだ新鮮なうちに上げるなら上げたいというのがあり、ここに載せておきます。

 一応、編集作業も進めている最中ですから、よそ見してるわけではないです。

 この次は、モアベターよ! というカンジで。

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コメント: 1
  • #1

    シロクマ (木曜日, 10 7月 2014 21:36)

    知識がないのでそうなのかと言葉が流れていく。場面の描写は何を見ているのか、頭のなかで生まれたものか。集積回廊、会する言葉と場面はどうして選び出されたか。